今週末は東日本大震災7周年追悼演奏会vol73

この記事の投稿者: HCメンバー

いよいよ東日本大震災7周年追悼演奏会も迫ってきました。
ブラームス作曲『ドイツ・レクイエム』は、本当に感動出来る曲で、最愛の曲と言っても過言ではありません。この曲は大学時代に合唱団で歌ったのが出会いです。以来15年くらい経っていますが、あの時に受けた感動は今でも覚えています。しかし、そうは言っても演奏予定がなかったので、なかなか勉強することも出来ませんでした。ですから、ついにこの曲をやろうと決めてから、あの手この手で研究しました。その過程で、2017年に来日したブロムシュテットの『ドイツ・レクイエム』を演奏をYouTubeで発見し、その演奏から色々なことを考えました。今回はその中から演奏様式について考えてみたいと思います。

19世紀後半の演奏様式、すなわち、ロマンティックな演奏とはどんなものだったのでしょうか。ブラームスの友人で彼のヴァイオリン協奏曲を初演したヨアヒムの晩年の演奏を聴くことが出来ます。

突発的なテンポの揺れや、控えめなヴィブラート、気の利いたポルタメント等、なかなか濃いですね。他にもハイフェッツの先生であるアウアーの演奏などもあります。

アウアーは自身が記したヴァイオリン教則本でヴィブラートは継続的に使うものではないと書いています。聞いていただければ分かりますが、控えめで効果的なそれを聴くことが出来ます。

ピアノ界からはダルベールの演奏を紹介しておきましょう。

ダルベールは当時大変愛されたピアニストで、ザウアーやローゼンタールと共にリスト派を代表するピアニストです。こういった19世紀生まれのアーティストのレコーディングが残っているのは、音質の悪さを考慮に入れても、大変有難いことです。

さて、ドイツ・レクイエムの録音だとどんなのがあるのかなと思い、色々聞いてみました。楽しい時間ですね。ただし、こういう大きい曲の録音はなかなかされませんでした。Wikipediaでは、1947年のカラヤン録音が最も古い録音として記録されています。ありがたいことに、それより古いメンゲルベルクのものがこちらで聴くことが出来ます。

メンゲルベルクについて知りたい方は、こちらで。

さて、メンゲルベルクの録音が一番古い録音かは分かりませんが、マーラーが「私のように指揮をする」と高く評価するほどの指揮者であるメンゲルベルクの録音は、まさに19世紀末の演奏様式を我々に聞かせてくれるものと思えます。その特徴は一言で言えば、細かいテンポの揺れです。メンゲルベルクのテンポは動きます。しかし、驚くべきことに、演奏は崩れません。まるで譜面に書いてあるかの如く、オケも合唱も一緒に動くのです。これは、テンポの揺れが即興からくるものではなく、メンゲルベルクの解釈であり、それを含めて一緒に練習したからできる技でしょう。そう言った意味で、まさにメンゲルベルクの解釈を完全に具現しているのです。
さて、どこを聴いても興味深い瞬間ばかりですが、特に第7のJa, der Geistの箇所が白眉です。あそこだけ前後の時間の流れを全く無視したようなテンポで、時間が止まったように感じます。それはまさに聖なるGeist、超越した存在のGeistが現れた瞬間のようです。
しかしそれは全て練習の通りにやっているはずです。しかし、そこには霊感が宿っています。なんと荘厳な演奏でしょうか。

次に、フルトヴェングラーのものを聴いてみましょう。

フルトヴェングラーもメンゲルベルクも、とても後期19世紀的な演奏様式で、その極致と言っていいと思います。しかし2人の違いの大きさもまた、この2人を同じ様式に入れていいの?というくらい違います。計算しつくされたルバートを駆使するメンゲルベルクと違い、フルトヴェングラーの演奏には、メンゲルベルクにない即興性、あの瞬間にしかないインスピレーションが輝いているように聞こえます。突然揺れるテンポに、オケも合唱も、パート単位で動くのが精一杯で、団員全体では動けなかったのだと録音から分かるからです。しかし、それでも音楽は崩れない。演奏も、ずれてはいても、崩壊することはありません。こんなことが現代で起きたら、こんな音楽的なサウンドが維持できるでしょうか。いや、無理でしょう。フルトヴェングラーならではの奇跡のような演奏です。
何故フルトヴェングラーにはこんなことが可能なのでしょうか。それは彼の中に、遥か先のゴールが見えているからです。聴いていて、あの凄まじい第2楽章や第3楽章、そして第6楽章を聴いても曲が終わった感じが全くしないと思いませんか?聴いていて、途中で、今日はこれくらいでいいやとは全く思わないのですね。続きがあることが感じられる。第7楽章の最後の和音が終わるまで、解決感がまるでないのです。楽章の終わりはとりあえずの停止でしかなく、次があることが感じ取れるのです。そのため、どんなにテンポが揺れても、全体の芯はビクともしていない。この安定感が必ずあります。しかしそれはあの凄まじい音響対によって巧妙に隠されるのです。フルトヴェングラーの演奏はいつも熱狂と深刻さがとてつもなく強調されますが、にも関わらず、聞き手は疲れることなく、最後まで憑かれたように聞いてしまいます。まるで、結末を知っているのにやっぱり感動する長編小説のようです。

言ってみれば、メンゲルベルクの演奏は、計算され尽くしているにも関わらず即興としか思えないディテールに感動し、フルトヴェングラーの演奏は即興性に満ち溢れていながら、終わってみれば曲全体に感動させられるという、パラドックス的な演奏なのです。

これに比べれば、前述のブロムシュテットの演奏やわが師ノリントンの演奏も、アッサリしています、あっけないほどに。ただ、私はノリントンの演奏は18世紀的な演奏様式、即ち19世紀後半の人が考えていたドイツの伝統的な演奏様式のハイレベルな再現であり、ブラームス最愛のクララ・シューマンが愛したであろう演奏様式だと思います。

さて、ではブロムシュテットのような演奏様式はどのようなものなのでしょうか。それは言ってみれば、メンゲルベルクでも、フルトヴェングラーでもない、もうひとつの道として20世紀に綿々と作られてきた良識あるドイツ人による演奏様式です。そこにはメンゲルベルクのような作意はありません。また、フルトヴェングラーのような遠大な構成感も瞬間の即興性もありません。しかし、それは柔らかさと暖かさに満ちた、誰もが納得のいく良識的な演奏です。この良識派の演奏は、19世紀に始まった市民による合唱運動が100年かけて作り上げたものです。指揮者の解釈の関与を極力排し、多少の差はあるにしても、大筋においてある種の枠からはみ出ない演奏。通常このような演奏を伝統的な演奏と呼び、戦後から主流派として、今でも大きな影響が続いています。私は、アーノンクールやノリントンの登場により古楽の影響が入るかと思いましたが、結局は大きなムーブメントにはならなかったようです。古楽器演奏を含む最近演奏がそれを表しています。


さて、ここで問題です。

私の演奏はどの立ち位置にいるでしょうか?

答えは、演奏を聴いていただければ分かります。
では、3月10日はタワーホール船堀でお会いしましょう(笑)
開演13時30分です、お間違えなく~

18世紀音楽研究会ハイドンコレギウム
音楽監督:右近大次郎

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